歯が浮くような名ゼリフ【ショートショート】

 彼女は歯を磨いて心を整える。就職面接の前も、仕事がうまくいかない時も、カードの請求で首が回らない時も、ひとまず歯を磨いた。彼女にとって歯磨きは身を清めてストレスを発散する、一種の儀式のようだった。

 

 家で映画を見る前にも、彼女は一連のルーティンを滞りなくこなす。トイレで用を足し、入念に歯を磨き、コーヒーを淹れて、ポップコーンを皿に開けて、明かりを暗くする。全ての準備が終わって一息ついた上で、「準備はいい?」と私に向き直る。君が大層な儀式をしている間に私の方はずっとスマホをいじって待っているのだから今更準備もないだろう。

 

映画が始まると、彼女の意識は画面の中に入り込む。彼女が体勢を変えた時、コップに手を伸ばした時、声を出さない様にあくびをした時。それを横目で見届けながら私も静かにあくびをする。私の脳のメモリは映画の内容より、終わったら彼女とどんな話をするかに割かれている。だからあの俳優は悪い老け方したな、とか現実ならあそこで警察に捕まって終わりだね、とかリアリティでドラマを腐すような感想ばかり頭に溜め込んでしまう。素朴な言葉が言えたらいいとは分かってるから、

「そんな捻くれた視点ばかりだと、どんな映画も駄作になりそうね」

と言われて確かに傷つく。もっとストレートにセリフの良さを受け取りな、と彼女は言う。

「セリフだって演技くさすぎて全然覚えてないね」

斜めから考える自分は嫌になるが、あわよくば目の付け所が鋭くてステキだと錯覚してくれないかと密かに期待するズルさもある。考えない人間は葦より風に強くても、高いとこから世界を見えないロゼッタなのだと、辛うじて言い聞かせてギリギリの自尊心を保っている。

 

「理屈っぽい男はモテないわよ」

「俺には彼女がいるんだから、モテなくたっていい」

「またそんなこと言って。油断してたら私だって愛想つかしちゃうかもよ」

「そうなったら、俺の本ちゃんと読んでから返してな」

「いくらなんでもドライすぎない?」冗談でも別れをチラつかされると嫌気がさす。私の身体を離れた言葉には少しトゲがあったかもしれない。

「そう言う君は、何か努力してるのか」

「これ以上丸くならないようカロリー抑えてるんだから」

「無理したってどうせ食べるじゃない。運動して消費カロリー増やす方がよっぽど合理的だよ」

もう、うるさい。私に背を向けると、彼女はつと洗面所に向かって歯を磨きだした。彼女の歯がキレイになるまで、と言うより奥歯に詰まったストレスを掻きだすまで待ちながら、私は天井を見つめて次の言葉を考える。

「歯磨きなんてコーヒー1杯のカロリー消費にしかならないって。ポップコーン開けたらもうおしまいだよ」

絶対にこの言葉じゃない。脳みそは停止指令を出しているが、舌はひとりでに回り続ける。

「そもそも俺は痩せてほしいなんて言ってない」

回転をせき止めたのは、私の意識ではなく彼女の言葉だった。

「わかりました。もう知らないから」

彼女はさっき終えたばかりなのに、丁寧にまた歯を磨いてから部屋を去った。まさか2回磨いたらお菓子のカロリーを回収できるとでも思っているワケはないだろう。私もモヤモヤしながら歯を磨く。ピンクの歯ブラシは几帳面にいつもと同じスタンドに立てられていた。私が放り投げたブルーのブラシは洗面台で横になっている。ともかく、一人で映画を見たって面白くない。所在のない私はさっさと床に就いた。

 

それから彼女とは連絡も取らずに1週間が経った。ある日の朝、家の前に見慣れない段ボール箱が現れた。ずっしりと重たい箱を開けると、中には本が敷き詰められていた。私がこれまで彼女に貸していた本達。よっぽど怒っていたのだろう。まさか本当に別れるつもりなのか。

活字の苦手な彼女はあまり本を読まない。それでも「いつか読むから」と彼女が言うので貸し続けたら、いつの間にかこんなに積みあがっていたことに驚く。一冊ずつ本棚に戻すと、元の居場所に帰っただけなのに何だかよそよそしく感じられた。そして軽くなった箱の底には見知らぬ本が2冊紛れているのに気づく。「女心の取扱説明書」と「神やせ!食べて痩せる7日間ダイエット!」、お前は何もわかってない、女心を学び直せということか。一応まとめて棚に納めるが、明らかに浮いている2冊は、むしろ本棚にポッカリと空いた穴のようだった。

 

貸した時の会話を思い出しながら、帰ってきた本をパラパラめくってみる。すると背表紙の内側に書き込みがあるのを見つけた。「私の好きなセリフ1選と、嫌いなセリフ3選」。今になって急いで読んでくれたのだろうか。ご丁寧に嫌いなシーンまで挙げるのは彼女らしくない。理屈っぽい私への当てつけだろうが、そんな反抗心さえ懐かしく思えた。

珍しく彼女が語る嫌いなものは、何より彼女自身を語っている気がして、感想をすべて拾いあげずにはいられなくなった。せっかく納めた本を一気にぶちまけて、次々と背表紙をめくっていく。

 

そんな私の手を止めたのは部屋に鳴り響くインターホンの音だった。

モニターに映るのは、きまりが悪そうに身じろぎする彼女。私は玄関まで駆けだして扉を開けると、まっすぐに彼女の目を見て、とびきりの言葉をかける。

「君なしじゃ生きていけないとは言わない。きっと生きていける。でも君なしで生きていきたくないんだ」

彼女が好きな映画のセリフだった。

「そんな大袈裟なこと思ってないでしょ」

イタズラっぽく笑う彼女には、キレイな白い歯がよく似合っていた。

 

 

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お題:「歯磨き」×「映画」