鍋を見つめたっていいじゃない

「見つめる鍋は煮えない」という言葉が好きだ。

鍋が煮詰まったかどうか、何度も気にかけたところで時間が早まる事はない。気にしても仕方がないことに時間を使うべきではないという意味だったと思う。数年前に本で目にしたこの言葉は、その他の内容全てを置き去りにするほど強烈な印象を残した。というのも私は穴が開くほど鍋を見つめるタイプだからだ。

絶賛就活中の私は、面談結果にソワソワして、メールで通知が来てから確認すればいいのに、何度もマイページを開いたりする。何の連絡もないマイページを確認した後は、就活の掲示板を覗いて、他人の就活状況を眺める不毛な時間が始まる。他にやるべき事があるのはわかっているが、鍋の様子が気になってしまう。

ちなみに私は文字通り鍋もちゃんと見つめる。カレーを煮込むときは焦げ付かない程度にたまに混ぜればいいところを、調子がいいと30分間ずっと鍋と対峙する事もある。こういう時の私は、ラジオという鍋を見つめる大義名分を得ている。週に5本のラジオ番組を聞いているが、通勤通学のないご時世でこの時間を確保するのは意外と難しい。ラジオが好きな癖に、時間を作って腰を据えて向き合うものではないという失礼な意識を持っているからだ。一方で、オチや山場を聞き逃したくないので作業用BGMとして垂れ流したくもない意識もある。120%の姿勢で聞きたくはないけど、内容に集中しながら聞きたい。対立する二つの意識は、せめぎ合いの末に、鍋をかき混ぜるという集中力の1%も要さない行為に私を駆り立てて握手をする。大義名分を得た私は、暗くて狭いキッチンで、胸を張って鍋をいじり続ける。そして私は何だかんだこの時間が好きなのだ。

「見つめる鍋は煮えない」という言葉に、今ならこのアンサーポエムを送りたい。

ー見つめる鍋は煮えないけど、たまには見つめたっていいじゃない。そこに楽しみがあるのなら。

最近は就活掲示板を覗いては、受かって嬉しそうなコメントと、落ちても朗らかなコメントにgoodボタンを押して楽しんでいる。もう私には鍋の見つめ方さえ分からない。