逃飛行【ショートショート】

青年は部屋の隅っこの同じ場所で、毎日同じ本を読んだ。

目が覚めると、本を手にとって表紙を捲り始める。そして深夜までゆっくりと時間をかけてかけて読み終える。このルーティンを繰り返して2年が経った。

 

奇妙なことに毎日同じ本を読んでいるうちに、同じ内容が繰り返される退屈感は薄れていき、次第に今日に限って物語が予期せぬ方に進んでしまわないかと恐怖を感じるようになってきた。当然そんな奇跡は起こるはずもなく、彼は毎日裏表紙にたどり着くたびに不思議な安堵感を覚えた。

 

今日も彼が本を読み終えると、すっかり辺りは暗くなっていた。彼はカーテンを少し捲り、窓の外を眺めた。窓からの目線は神社の裏参道へとまっすぐ伸びて鳥居にぶつかる。月が出ない夜でも街頭の灯りを反射して、立派な鳥居の赤色は部屋まで届いてくるから気圧されてしまう。

 

どうしてこうなったんだろうか。彼は堕落しきった自分に嫌気がさした。敷布団とリュックとスニーカー、それだけの殺風景な部屋の隅で体を丸める。

 

——— 俺も一緒に行くからさ、行こう?

 

そう手を差し伸べてくれる友人もいたが、気が付くと現実から逃げて部屋に引きこもる生活をやめられなくなっていた。

 

扉越しの階段を登ってくる足音が、静寂に穴を開けた。そしてノックの音が続く。

「焦らなくていいから、ヒロちゃんがしたいようにすればいいと思ってるの。でもね、あんまりずっとこの部屋に閉じこもってるのは良くないんじゃないかしら…」

 

そうだよね、分かってる。窓を眺めがら応えた。

 

コトンと何かを置いた音がして、足音が遠ざかる。彼は扉を開けてお盆に載ったうどんを部屋に引き込み、再び訪れた静寂に深いため息をのせた。

 

鳥居越しの向こう側が見えると彼は申し訳ない気持ちになった。神とヒトの世界が鳥居で仕切られているとするならば、この部屋のカーテンはヒトの世界にも馴染めない半端者を閉じ込めた鳥籠みたいだ。気づくと彼は窓の外を見るときも、決してカーテンを開けず、端をつまんで捲った隙間から覗くようになっていた。

 

鳥居の起源は、天の岩屋にこもった天照大神を呼びだすために集めた鳥たちの止まり木だと、昔本で読んだ。あの鳥居にとまった鳥は、私と神様、どっちを向いて鳴いてくれるんだろうか。

彼はどうして岩屋でなく、鳥居ばかりが神聖視されるのか不思議になって、母親に問いかけたことがあった。

 

——— 鳥居の方が建てやすくて便利なのよ。それに何より、神秘的でステキじゃない?

 

母は明快な人だった。母とのそんな会話ももう久しくない。彼は夜の暗闇が少し水色を帯びてくるのを感じて、いつものように床に就いた。

 

翌朝も、目を覚ますといつものように本を頭から読み始めた。太陽が東から登り西に沈むのと同じように、ページが半円を描いて積み重なっていく。その感覚だけが、社会に馴染めない彼の孤独を紛らわせた。

 

物語がクライマックスに差しかかる。今日も変わらない展開を進んでくれ。そう願う彼の心拍は速度を上げる。全身の毛穴から汗が噴き出してくるのを感じ、足は小刻みに震えだす。落ち着け、落ち着け。早る気持ちとは裏腹に、ページは一定のリズムを守って淡々と捲られていく。

 

そんな時インターホンが鳴った。そして階下から鍋をおたまで打つ音が3回聞こえたのを合図に、我に帰った彼は本をポケットに放り投げ、リュックを背負ってスニーカーを履いた。そしてカーテンをくぐり抜けて、外壁の排水管を伝って静かに地上へ降りた。地に足が付く頃には、先ほどまでの動揺は嘘のように彼は落ち着きを取り戻していた。

 

また新しい場所を探さないといけないか…。

 

こんな夜でも、鳥居は神秘的でステキだな。彼はその眩しさに目を細める。夜に溶け込んだカラスは、新しい止まり木を求めて、あてもなく歩きだす。彼は電話帳を開き、地方に移り住んだ友人の連絡先をなぞってみる。

 

 

先ほど飛び立ったばかりの古巣では、ガチャリと玄関のドアが開く。

「すみません、警察です。このあたりで殺人事件の犯人を探しておりまして」

 

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お題:「神社」×「カーテン」