映画の感想が慎重な彼は、人狼がうまい

映画が終わって、劇場が明るくなった直後。あなたは最初に何を話しますか。

 

私は何も話したくない。

 

フッと現実に引き戻される感覚が苦手なんです。

もう少し余韻に漂っていたいし、ただ酔っていたいので、動きたくないし、喋りたくない。みんな新鮮な感覚で内省するために、5分くらいは暗いままロウソクの映像でも流しておけばいいのに。

 

そもそも同じ映画を見ていた見知らぬ人が聞き耳を立てているかもしれない中で、踏み込んだ感想を話を話すのは一方的に裸をさらすようだし、他の人が受けた印象に私の感想でノイズを与えるつもりはありません。

 

だから私は言葉を探します。

今日もエンドロールを目で追いながら、明るくなったらどんな言葉を発すればいいんだろうと考え始めます。けれど、たいてい出てこない。余韻は私から集中力を奪うので、結局まあいいか、と思考ごと背もたれに投げだしてしまいます。

 

エンドロールよ終わらないでくれと祈るも虚しく、今日も劇場は明るくなりました。

一言目はお預けしちゃえ。

 

そう思ったとき、すかさず隣の友人が口にした言葉。

「映画中むせちゃって、めっちゃ恥ずかしかったわ」

これでした。理想の言葉は。不思議と安心して脱力したんです。

 

映画の内容については話したくない。でもいきなり映画をガン無視して、今から何食べるかを話すのは不自然だし、つまらなかったのかな、と余計な心配をかけてしまいます。だからこれくらいの触れ方がきっとベスト。

 

彼も直接内容には触れたくないし、ストレートな感想を最初のラリーで話すことにも違和感があったのか、同じ感覚を彼も持っていたように思えて安心しました。

まるで人狼で2人だけお互い白だと確信できた瞬間のよう。

 

映画を見たあとの反応が慎重な人は、人狼がうまいんだろうな。

 

それに彼は慎重に周りを見たうえで、私と違って発言を先導してくれるから、人狼ならゲームを動かしてくれるでしょう。

 

頼もしいやつだなあ。

結局吊られる小市民は感心しました。

犬も歩けば棒にあたるってやつだな【歩くを考える #3】

「犬も歩けば棒にあたる」という言葉が愛おしくてたまらない。

ご存知の通り、何か行動を起こそうとして、災難にあうという意味だ。

 

ことわざといえば?と問えば、多くの人がこの言葉を浮かべるだろう。

しかしその知名度の割に、日常会話で使うことはほとんどない。

 

皆ことわざの引きだしの一番上に入れたまま、古今東西線ゲームか、SAPIXの授業のとき以外は鍵を閉めてしまっている。

 

仮にあなたが「たまには遠出して大きな神社に参列してみよう」と意気込んで初詣に行き、不運にも人混みからコロナウイルスを頂戴したとする。あなたは絶対に「まさに犬も歩けば棒に当たるってやつだな」とは言わない。断言できる。

たとえそれが戌年だったとしてもだ。

 

そもそもことわざなんて日常会話には必要ない。使わない言葉なんて消えてしまえ、という過激派日本語ミニマリストの主張はある意味でスジが通っている。

 

ただガラクタ好きな私は、なくてもいいけどあってもいい、そんなゆで卵スライサーみたいな語彙に囲まれながら生きていたい。犬も歩けば棒にあたる選手には、スーパーサブとして胸を張って生きてほしい。

 

そんなことを考えていたある日。

打ち合わせで私の余計な発言がきっかけで、要らぬ宿題をもらってしまった。会議が終わって先輩に「あれは完全に藪蛇でしたね、すみません」と言ったときに、ハッと気づく。

 

小学校のことわざの授業では、「犬も歩けば棒にあたる」と「薮をつついて蛇を出す」も平等に覚えた。同じようにことわざの引きだしに詰め込んだ犬と蛇。それがいつの間にか蛇だけ抱えて、日常会話のケージに移して飼っていたようだ。

 

今どうしてるかな。

 

久々に鍵を開けて引き出しのスキマから中を覗いてみると、こちらを見上げる犬と目があった。犬は立ちあがり、引き出しの中をしっぽを振りながら甘えた調子で歩き始める。

 

いいんだよ。お前は決して負け犬じゃないし、そこが一番輝いているんだよ。

 

私が語りかけて、引きだしを閉じた瞬間。ちょうど飛びあがった犬のしっぽを巻き込み、悲痛の叫びが響き渡った。

 

「犬も歩けば棒に当たるってやつだな」

 

さすがの私も口にせざるを得なかった。

「劇場」に棲みつく悲しき不器用モンスター

まぶたは薄い皮膚でしかないいはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。

もう少しで見えそうだと思ったりもするけど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。

あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える。

引用:又吉直樹「劇場」

久しぶりに手に取った又吉直樹の「劇場」という本は、

劇場の幕が開くかのように、まぶたが上がると、物語が始まった。

 

劇団を立ち上げ、演出家として生きる主人公「永田」は、公演をひらけば酷評の嵐、劇団員にも見放されるなか、自分の才能を一心に信じてくれる「沙希」と出会い、その笑顔に支えられる。

しかし演劇にのめり込むにつれ、演出家としての嫉妬や惨めさを沙希にぶつけるようになり、次第に気持ちはすれ違ってしまう。

 

そんな不器用な恋の話だった。

 

私が初めてこの物語を読んだのは、5年前。当時付き合っていた彼女と別れた後くらいのこと。

永田と沙希の関係が、理屈っぽい私とピュアな当時の彼女に痛く重なって思えて、読み進める手が止まらなかった。

 

身につまされる話だなあと思う一方で、「なんでそんな不器用やねん!」と永田の天邪鬼にもどかしくなる場面が多く、「ここまではひどくないな」と辛うじて安心したのを覚えている。

 

 

たとえば、

・永田と沙希がたまたま同じ本を買って帰ると、「同じこと考えてたんだね!」と喜ぶ沙希に対して、「金もないのに余計なことすんな」と苛立ちをあらわにしてしまったり。

・沙希が友人からもらった原付を、嫉妬から蹴っ飛ばして破壊してしまったり。

・家にこもってゲームに明け暮れる罪悪感から逃れようと、サッカーゲームに打ちこむ姿を勝ちにこだわるストイックな一面と受け取ってもらえないか考えて、物憂げな表情で画面に向きあったり。

 

 

なんでそんな不器用やねん!

 

 

感情表現が苦手な永田でも、人を呪うときには極めて饒舌になった。

『民芸品店で売ってるオシャレな小さじ。お前の小説はそんな感じやった。持っててもいいけど、別になくても困るようなものでものない。誰かは好きそうやなと思うけど、実際に集めてる人に会ったことはない。お前を脅威と感じない誰かは適当に褒めてくれると思う。』

 

そのくせ照れくさくて、酒を飲んだ夜にしか手を繋ぐこともできなかったりする。

「手つないでってい言うたら明日も覚えてる?」

「うん?どういうこと?」

「明日忘れてくれてんねやったら手つなぎたいと思って」

 

自意識と愛情の出力が歪な永田の不器用さを、人間らしいなとも思った。

温かいユーモアがあって、人と内面から向きあうけど、救いようのないほど感情と言動に折り合いがつけられない。彼はそんな愛すべき男だった。

 

もう少し素直になれてたら、きっと違った結末になってたんだろうな。

 

 

パタンと本を閉じて、表紙の文字を指でなぞる。

心に穴が開いたような、それでいて胸がすくような。不思議な読後感があって、笑いながら少しだけ泣いてしまった。

 

読み終えるとすっかり夜は深くなっていて、窓の外には満月がでていた。

夜風に当たりたくなった私は、羽織りもせずに部屋をでた。肌をさらう風には冬のにおいが混じっていたが、今の私には好ましく感じられた。

 

コンビニでコーヒーを買い、「濃いめ」のボタンを押して、液体が抽出されるのを待つ。

 

こんな深夜からブラックコーヒーを飲む私を、ストイックな一面があると誰か受け取ってくれないものか。

 

不必要な思いつきで店内を見回すと、プロテインを買っている明らかにジム帰りのマッチョと目があったので、コーヒーを引ったくってそそくさと店をでた。

 

丸まった背中が受ける風は、さっきより固さを帯びている気がした。

 

部屋に戻った私はいつものナイトルーティンに腕立て伏せをくわえた。

 

そして少しだけ穏やかになったところで床につき、

ようやく、この日はまぶたを下ろした。

ホーム・アディクト

独りぼっちの駅の鳩。迷子になっちゃったと気づく。

ベンチの下を右往左往。

どちらが地上かわからない。

 

 

手持ち無沙汰な駅の鳩。ただあてもなく地面つつく。

食べれるものは食べつくした。

固くて冷たい温度だけ。クチバシ伝ってやってきた。

 

 

クッキーくれた丸いおじさん。その足元にひっついてく。

何度か分けてくれたけど、目もくれずにふと立ち上がる。

急に現れた大きいヘビ。みたいなその巣に消えてった。

 

 

突然こわくなった鳩。出られないカモと心づく。

諦めちゃダメと鳩胸張る。

ただ明るい方に首を振り、一歩ずつ足を踏みだした。

 

 

遠くからやっと射す光。その眩しさに息をつく。

急に目覚めたような心地。

あとはカラダが覚えてるぞ。この方角に飛んでいこう。

 

 

そして久しぶりに会えたママ。

「どこ行ってたの」「どこだっけ」

よく覚えてはないんだけど、やっぱりおうちが一番だ。

勘違い男の孤独のグルメ

仕事を終えて帰途につくと、ふと町の定食屋にいきたい衝動が込みあげてきた。

Google検索の末、気づくと老舗の渋い定食屋の扉に手がかかっていた。

 

時刻は20:30。仕事終わりのサラリーマンで溢れていてもいいはずだが、店内に客は一人もいない。話し声もなければ、音楽もなく、喧騒からはほど遠い。

 

静かに仕込みを続けていた老夫婦の「あら、どうぞ」という優しい声と、かすれた文字で定食の名前が書かれた木の掛け札だけが私を迎えた。

 

ほぼカウンターだけのお店の中、私はその中央にひとり静かに腰をおろす。

 

えも言われぬ名店感と渋さが漂った空間にあり、私は孤独のグルメ松重豊よろしく、早くも雰囲気に酔っていた。

 

私は努めて落ち着いた声をだす。

「サバの煮付け定食、お願いします。」

 

私の穏やかな所作は、常連のそれと映ったに違いない。

 

注文を受けると、緩慢な店主がつとギアを上げる。シワがれたおじいさんの鮮やかな手さばきを見ると、待ってましたと言わんばかりの気味合いを静かに感じる。

 

いつもならスマホyoutubeでも見るところだが、この日の私はペーパーバックを携えてサバを待った。

 

私の穏やかな所作は、常連のそれと映ったに違いない。

 

「お待ちどうさまです」

 

程なくして届いたお盆には、サバとご飯とお味噌汁。それにおしんこと梅干しが添えられていた。なんて優しくて安心するお盆だろう。

ムダなく配置された食器の曲線やツヤやかなサバを乗せて、お盆の正方形は枯山水のごとき美しさをたたえている。

 

最近では「ていねいな暮らし」を前面に出しすぎて、逆にギラついて見えるお店も増えてきた。

 

その類のお店は私の好物だが、まったくケレン味のないお店から出された優しい定食を前に、「ていねいな食事はていねいなマーケティングを前提としないんだよ」と優しく諭された気がした。

 

さっそく、サバをひとかけ口に運ぶ。

 

 

おいしい...。

 

 

私は気づくと極めて王道で、温和で、健康的なお膳を余すことなく平らげていた。

 

常連のそれと認められるよう緩やかな動作で腰をあげ、大満足でお店を後にしようとしたところで、問題に気がつく。現金を持っていなかった。

 

「PayPayは、使えないですよね?」

「ごめんなさい。現金のみなんです。」

 

穏やかな声で優しく告げられる。すみません、すぐ降ろしてきます。そう伝えて急ぎコンビニに駆け込んでから、支払いを済ませた。

 

ただあまりに穏やかで優しいものだから、一連のやり取りは気まずさよりも微笑ましさを帯びていたと思う。

ごちそうさまですと言ってから、店を出るまでも、「ありがとうございました」と10回は声をかけられた。

 

そもそもこのお店の雰囲気でPayPayを使えるわけがなかった。PayPayを使えるかを聞くという一か八かのトライで、常連かもしれないという店主の錯覚は解けたことだろう。

 

そんな気恥ずかしさの一切まで包んで溶かされるほど、私はそのお店の和やかさを好ましく感じていた。

 

 

店を出ると、10月も半ばになり一段と秋めいた風が頬をさらう。

本格的なサバの旬はこれからだな。

 

また食べに来よう。そう思った。

 

地球一周するトレイレットペーパー【歩くを考える #2】

人が一生で歩く距離は地球一周分」と、本で読んだことがあります。

 

「とてつもなく長い距離を歩く」という文脈で語られていた気がしますが、最短距離で1週分なので、世界中を寄り道しながら歩き回るには時間が足りないんだよと言われているようで、私はすこし寂しくなったのを覚えています。

 

とはいえ地球一周分(4万km)と言ってもピンとこないので、関連する長さを調べてみると、あるサイトがヒットしました。

 

血管の全長は、なんと地球の約2周半!?

 

どうやら枝分かれしまくった無数の毛細血管もあわせると、10万kmになるそうです。いや全然ピンとこない...。

だってこれ、数え方がちょっとずるいですよね。並列して走っているものをまとめて数えないでよって。小学校で説教されたときに「あなたを説教するためにクラスの50人が5分を無駄にしました。あなたは250分もの時間を奪ったんです。」と言われたのを思いだしました。

 

やはり地球一周分をつかむには、1本の線で数えた方がわかりやすいです。

トイレットペーパーで考えましょう。

 

そう思って調べたら、検証した方が見つかって心の中でガッツポーズ。世の中には愛すべき阿呆がいるものです。

 

いわく、地球一周分のトイレットペーパーは直径64m

日本橋室町三井タワーが全長141m、11Fはちょうど真ん中くらいの高さかと思うので、日頃働いているときと同じ目線のトイレットペーパーなら地球を回れてしまうわけです。

紙とビル

図にするとこんな感じでその巨大は一目瞭然。だいぶイメージが湧いてきました。

 

こうなるといよいよ、この巨大ロールを使い切るのにどれくらいかかるか気になりますよね?

 

男女で使う量がかなり差がありますが、仮に寿命85年の男性とすると、

・1日の使用量は約3.5m。

・一生でわずか108km。

我々では4万kmの巨大ロールには遠く及びません。

 

このペースでは、使い切るのに3万年かかります

 

仮に旧石器時代から現代まで生き続けたミュータントがいて、人類が日本列島に渡った3万年前から巨大ロールでお尻を拭いてきたとしたら、ちょうど今ごろなくなってますね。

 

人類の歴史まで越えるとは、いやはや巨大ロール恐るべし。

 

感心していたところで、思わぬ落とし穴に気づきます。

トイレットペーパーに使われる中性紙の寿命は300年...

 

嗚呼、諸行無常なり。

 

永遠に続くものなどないということですね。健康なカラダもいつまで続くかわかりません。みなさんも健康なうちに、歩けるうちにたくさん歩くのがいいのかもしれませんね。

 

(参考)

https://ketsuatsu-support.com/hypertension/trivia/column11.html

毎日何気なく使っているトイレットペーパーに関するデータをご紹介。平均使用量から年間使用量まで。 | データで越境者に寄り添うメディア データのじかん

【物理エンジン】何回トイレットペーパーを巻けば地球一周の長さになるのか? - YouTube


www.youtube.com

 

成金のひたむきさに倣え【歩くを考える #1】

成金という言葉がネガティブな意味で使われることに違和感がありました。

成金は将棋の歩兵が敵陣まで進んで「金と成る」ことに由来していますが、我々が日常で使う「成金」のイメージと、一マスずつひたむきに進んで「成った金」はまるで正反対のように思えるんです。

 

歩兵の立場になって考えましょう。

二歩というルールにもあるように、歩兵たちは誰の背中も追うことも許されず先陣を切って道を切り開いていく。いつスキマから角行や桂馬が飛びだして心臓を射抜かれるかもわからない。次第に銃声がカラダに大きく鈍く響いてくるのを感じ、同志の歩兵たちがバタバタと倒れていく様を横目に見ながら、脚の震えも速度を上げる。

そうだ、これは武者震いに違いない。そう信じてひたすら前進を続け、最後まで歩くことを辞めなかったほんの一握りの歩兵だけがようやく敵陣で金と成る。

当然成れたら人生アガり!というわけでもなく、強さを己のためでなく、自軍のためにふるい、仲間の思いも背負って敵の心臓部で暗躍して散っていく。。。

 

そんな桜のような儚さと力強さが成金にはあるんです。だから急激に富裕になった人を将棋になぞらえて「成金」と揶揄していては、歩兵も浮かばれません。

 

「成金」に替わる適切な日本語は私の方で考えておくことにします。

 

それはそうと、歩兵はたくさん歩くと「と」金になりますね。この「と」は平仮名ではなく、「金」や同じ読みの「今」を崩した文字らしいです。ですが改めて見てみると、私には金や今ではなく、4分休符に見えました。

たくさん歩いたら休むのも大事だよ、ということでしょうか。

 

皆さんも時に休みながら、無理ないペースでウォーキング楽しんでいきましょう!

 

と金

4分休符