逃飛行【ショートショート】
青年は部屋の隅っこの同じ場所で、毎日同じ本を読んだ。
目が覚めると、本を手にとって表紙を捲り始める。そして深夜までゆっくりと時間をかけてかけて読み終える。このルーティンを繰り返して2年が経った。
奇妙なことに毎日同じ本を読んでいるうちに、同じ内容が繰り返される退屈感は薄れていき、次第に今日に限って物語が予期せぬ方に進んでしまわないかと恐怖を感じるようになってきた。当然そんな奇跡は起こるはずもなく、彼は毎日裏表紙にたどり着くたびに不思議な安堵感を覚えた。
今日も彼が本を読み終えると、すっかり辺りは暗くなっていた。彼はカーテンを少し捲り、窓の外を眺めた。窓からの目線は神社の裏参道へとまっすぐ伸びて鳥居にぶつかる。月が出ない夜でも街頭の灯りを反射して、立派な鳥居の赤色は部屋まで届いてくるから気圧されてしまう。
どうしてこうなったんだろうか。彼は堕落しきった自分に嫌気がさした。敷布団とリュックとスニーカー、それだけの殺風景な部屋の隅で体を丸める。
——— 俺も一緒に行くからさ、行こう?
そう手を差し伸べてくれる友人もいたが、気が付くと現実から逃げて部屋に引きこもる生活をやめられなくなっていた。
扉越しの階段を登ってくる足音が、静寂に穴を開けた。そしてノックの音が続く。
「焦らなくていいから、ヒロちゃんがしたいようにすればいいと思ってるの。でもね、あんまりずっとこの部屋に閉じこもってるのは良くないんじゃないかしら…」
そうだよね、分かってる。窓を眺めがら応えた。
コトンと何かを置いた音がして、足音が遠ざかる。彼は扉を開けてお盆に載ったうどんを部屋に引き込み、再び訪れた静寂に深いため息をのせた。
鳥居越しの向こう側が見えると彼は申し訳ない気持ちになった。神とヒトの世界が鳥居で仕切られているとするならば、この部屋のカーテンはヒトの世界にも馴染めない半端者を閉じ込めた鳥籠みたいだ。気づくと彼は窓の外を見るときも、決してカーテンを開けず、端をつまんで捲った隙間から覗くようになっていた。
鳥居の起源は、天の岩屋にこもった天照大神を呼びだすために集めた鳥たちの止まり木だと、昔本で読んだ。あの鳥居にとまった鳥は、私と神様、どっちを向いて鳴いてくれるんだろうか。
彼はどうして岩屋でなく、鳥居ばかりが神聖視されるのか不思議になって、母親に問いかけたことがあった。
——— 鳥居の方が建てやすくて便利なのよ。それに何より、神秘的でステキじゃない?
母は明快な人だった。母とのそんな会話ももう久しくない。彼は夜の暗闇が少し水色を帯びてくるのを感じて、いつものように床に就いた。
翌朝も、目を覚ますといつものように本を頭から読み始めた。太陽が東から登り西に沈むのと同じように、ページが半円を描いて積み重なっていく。その感覚だけが、社会に馴染めない彼の孤独を紛らわせた。
物語がクライマックスに差しかかる。今日も変わらない展開を進んでくれ。そう願う彼の心拍は速度を上げる。全身の毛穴から汗が噴き出してくるのを感じ、足は小刻みに震えだす。落ち着け、落ち着け。早る気持ちとは裏腹に、ページは一定のリズムを守って淡々と捲られていく。
そんな時インターホンが鳴った。そして階下から鍋をおたまで打つ音が3回聞こえたのを合図に、我に帰った彼は本をポケットに放り投げ、リュックを背負ってスニーカーを履いた。そしてカーテンをくぐり抜けて、外壁の排水管を伝って静かに地上へ降りた。地に足が付く頃には、先ほどまでの動揺は嘘のように彼は落ち着きを取り戻していた。
また新しい場所を探さないといけないか…。
こんな夜でも、鳥居は神秘的でステキだな。彼はその眩しさに目を細める。夜に溶け込んだカラスは、新しい止まり木を求めて、あてもなく歩きだす。彼は電話帳を開き、地方に移り住んだ友人の連絡先をなぞってみる。
先ほど飛び立ったばかりの古巣では、ガチャリと玄関のドアが開く。
「すみません、警察です。このあたりで殺人事件の犯人を探しておりまして」
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お題:「神社」×「カーテン」
コロナ限定ホームサウナ
盲目のピアニストや、アウトサイダーアートなど、身体の一部が不自由になるとその分ほかの感覚が鋭くなる、というのはよく聞く話だ。
時刻は深夜3時。私は39度の高熱にうなされながらベットに横たわっている。朝から寝通しなのでもう眠気もないが、ただマットレスの深いところにカラダが沈んでくれることを願いながら天井を見つめている。
カーテン越しに全開にした窓の外からは、昼間に聞こえた工事の音も、笑い声も、鳥の鳴き声も聞こえない。あるのは少し離れた大通りを時折、車が走り抜ける音だけ。
左からサーッ、右からサーッ。
最近の車は静かで、軽快に空を切る音は心地がいい。大きなトレーラーが来たときはエンジンの音と振動を部屋まで運んでくるから、目を瞑っていてもわかる。少し不規則で、それでいて止むことはない。
左からサーッ、右からサーッ。
私は、寄せては返す、波の音を聞いているような、そんな感覚になった。
カラダは熱を帯びているが、氷枕に預けた頭はひんやり冷たくて、水面に浮かんで水の流れを感じているみたいだ。
私はこの感覚に覚えがあった。
先日行ったテントサウナでのこと。
私はサウナで火照った体を、川の浅瀬で仰向けになり天然の水風呂で冷やした。
この時に耳の穴まで水中に沈めると、不思議な感覚に陥った。プツッと世界から音がなくなり、川が流れる音も、BBQをしている人たちの声も聞こえない静寂が訪れる。しかし神経を研ぎ澄ますと、遠くで滝が流れ落ちる音を意識の深いところでわずかに感じる。
自分が自然の一部に溶け込んだようで心地よく、思わずまどろんでしまった。思い出したように目を覚ましてふと立ち上がると、あらゆる音が一気に頭の中に流れ込んできて、止まっていた世界が再生された。カラダが想像以上に冷え切っていたことに気が付き、ふらつく足で丘を目指して歩く。
川底の小石を踏み締めた時、足の裏に痛みを感じると生き返ったような心地がして、三途の川から此岸に帰ってきたような気持ちになった。
人は死の間際に途轍もない快楽に包まれるというが、川から生還したあと、外気浴をする椅子のうえで”整った”私の快楽もそれかもしれない。
あの時と同じだ。
氷枕の上で私は、頭をジッと冷やしている。たまに起き上がると熱を帯びたカラダはサウナ中のようにポカポカと暑くなっている。体調を崩して、図らずも部屋の中で水風呂とサウナを繰り返しているような私。
外気浴の気持ちよさはお預けを食らっていているが、体が完全に回復する時まで、丁寧にサウナと水風呂のルーティンを繰り返してみようと思う。
南極でペンギンを見たいので、ゴルフは引退します
ゴルフをやめると決めた。
大学1年で始めたゴルフ、惰性で続けてここまできたけど正直ハマりきれなかった。流れていく時間とお金に見合うだけの情熱を持てなかった。ゴルフって鈍る速度が速いから、やるならとことんやりたい。でも今の熱量で微妙な距離感で関係を続けるくらいなら、いっそキッパリお別れしよう、そう腹を決めた。
ゴルフにハマる人には、3種類いると思う(超偏見)。
(1)ゴルフ特有のコミュニケーションを楽しめる人
ゴルフはスモールトークの大会だ。順番にティーショットを打つ時、カートに乗っているとき、同じ方向に飛んだボールまで歩くとき、合間合間で短い会話をする機会が1ラウンドに200回くらいはある。天気いいですね、スギが多いから花粉症には堪えるね、午後イチだから体が回ってないねとか、ラウンド中はそのくらいの軽い温度のコミュニケーションがふさわしいし、そういう話題を出せる人は気が利いていてステキだ。しかし私はこの会話が不得手だ(キライではない)。
まず負けず嫌いなので競技に集中して会話を忘れてしまうことも多いし、話が長い私は腰を据えて長尺で会話する方が向いていて、30秒でできる話題は18ホールも持たずにネタ切れする。口数が少なくなった私は、ラウンドが終わった浴場で友人と正対したときに、文字通り水を得た魚のように舌が元気に泳ぎだし、帰りのドライブではもっと勢いづく。振り返ると風呂とドライブを楽しみにラウンドに行っていた気もする。
このスモールトークの大会はハマる人とハマらない人がいて、私はあまりハマらなかった。
(2)何かしらのスポーツをやりきった人
大学まででバスケやサッカーなど、メジャースポーツをやりきった人は、社会人になるとスポーツ隠居生活に入る。そんな時にちょうどいいカロリーなのがゴルフだ。今となっては激しい動きを求めていないが、体への感覚が鋭いかつてのアスリートたちは筋肉をいかに同調させて精緻なスイングをするか、そこに奥深さを見出してゴルフにハマる。意図した筋肉の動きに体を従わせていくという意味では、筋トレにハマるのと同じ理屈だと考える。
自分はストイックにスポーツをやってこなかったので、息があがるくらいの激しい動きをすること自体に新鮮な感動がある。ゴルフに落ち着くのはまだ早い。
(3)貴族の遊びをしている感覚そのものを楽しめる人
お金があってゴルフができるからやる。それくらいの温度で続けている人も意外と多い気がする。何か趣味を作ろうと思ったときに、予算内で上から見ていったらゴルフがあったという単純な動機。あるいは付きあいに必要だからというタイプ。いずれにせよ、お金があるから使うのも、敷居の高いフィールドで繋がりを維持するのもかなり貴族的な営みだ。優越感とかお金を使うこと自体の快楽を楽しんでいる人は一定数いそう。
私もかなり金遣いが荒いから、この感覚はわかる。ただオーロラとか南極でペンギンを見るのに、まとまったお金と時間を使いたいと最近思い始めた。
自分の頭の整理のためにも駄文を連ねたが、こういうワケでゴルフを引退する。宣言した方がキッパリ辞められそうだという計算も少しある。
ゴルフを好きで続けるのは最高だし、ハマるか分からないからとりあえずやってみるのも素晴らしいと思うので、ゴルフを下げる意図は全くありません。私の場合は大学からしばらく触れてきて楽しかったけど一段落着いたというだけ。
一番の本音は、ゴルフを続けると自分の人生が固定化されそうで怖くなったから。
時間とお金がないまま付きあいは増えて、自分がやりたいこととか考えるスキマがなくなって、海外旅行とか読書とか視野広げるためにエネルギー割かなくなって、いつかそんなことも気にならなくなって、愛する家族と変わらない日常で幸せ。
ゴルフを続ける判断をしたら、こんな素敵な未来の線だけがグッと濃くなる気がして恐ろしくなった。若い私はもっと夢を見ていたい。
ただ私の考えはコロコロ変わるので、いつかしれっと再開しているかもしれない。その場合はラウンド中に200回イジる機会があるので、活用してくれたら嬉しいです。
リボで払う気持ちがわかる
社会人になって、初めてまとまった給料をもらった。何を買おうか話題になったが、喜びもつかの間、3日後に迫るカードの引き落とし額を見て真顔になった。
金遣いの荒さも上には上がいる。会社同期のひとりは大量のカードとボーナス払いを駆使し、あらゆる手段で痛みを繰り延べながら物欲を満たしている。
「どうせ後で金入るんだからなんとかなるでしょ」
彼の言い分は間違ってないが、このままリボ払いにエスカレートしそうで心配してしまう。というのも、私はリボ払いに過剰な恐怖心をもっている。
お小遣いとお年玉しか収入源のない小学生の頃から、親に「リボ払いだけは絶対に手をだすな」と口酸っぱく言われていたので、リボ払いは悪であり縁遠いものだとぼんやり認識していた。
その認識は大学生になって、闇金ウシジマくんの映画を見て強化される。借金を取り立てるウシジマくんは、債務者の前歯で挟んでゴルフボールをティーアップし、フルスイングで飛ばしていた。ボールは勢いよく打ち出されて宙を舞う。反発でへし折られた前歯と共に…。
芯を食った打球音の心地よさに似つかわしくないショッキングな映像は、ぼんやりした警戒心を明確な恐怖に塗り替えた。闇金とリボ払いには手を出すまい。
目先のお金より、永久歯の方がよっぽどかわいい。
しかしここ1年、イボ治療のために皮膚科に通いながらリボ払いしていると錯覚することがある。
治療では自然と大きくなるイボを、1,2週間ごとに液体窒素で患部を凍結殺菌し、じわじわイボを小さくして消滅させる。
まめな通院が必要とはいえ、1年通っても治療が終わらないのはひとえに私の怠惰のせいとも言える。イボが大きくなるより早いペースで治療を受ければいいのだが、痛みもないし忙しいから、と少し目を離すとイボは豆苗のようにみるみる成長している。
その速度に焦った頃になって、私はやっと重たい腰を上げる。
明らかに適切なペースを守れていないのに、凍結されてヒリヒリとする痛みと引き換えに、今月もかろうじて拡大は食い止めたぞと安心感をもらう。これではいつまでも減らない元金をよそに、利息だけ払って生き延びるダメ男のようじゃないか。
もし私がリボ払いに手を染めていたら、瞬く間に堕落しただろう。
親は私の人間性まで見通して、リボ払いはやめろと説いたのかもしれない。父母の慧眼に脱帽。
ひとまず今の私に必要なのは、リボ払いでなく、イボ祓いのようだ。
歯が浮くような名ゼリフ【ショートショート】
彼女は歯を磨いて心を整える。就職面接の前も、仕事がうまくいかない時も、カードの請求で首が回らない時も、ひとまず歯を磨いた。彼女にとって歯磨きは身を清めてストレスを発散する、一種の儀式のようだった。
家で映画を見る前にも、彼女は一連のルーティンを滞りなくこなす。トイレで用を足し、入念に歯を磨き、コーヒーを淹れて、ポップコーンを皿に開けて、明かりを暗くする。全ての準備が終わって一息ついた上で、「準備はいい?」と私に向き直る。君が大層な儀式をしている間に私の方はずっとスマホをいじって待っているのだから今更準備もないだろう。
映画が始まると、彼女の意識は画面の中に入り込む。彼女が体勢を変えた時、コップに手を伸ばした時、声を出さない様にあくびをした時。それを横目で見届けながら私も静かにあくびをする。私の脳のメモリは映画の内容より、終わったら彼女とどんな話をするかに割かれている。だからあの俳優は悪い老け方したな、とか現実ならあそこで警察に捕まって終わりだね、とかリアリティでドラマを腐すような感想ばかり頭に溜め込んでしまう。素朴な言葉が言えたらいいとは分かってるから、
「そんな捻くれた視点ばかりだと、どんな映画も駄作になりそうね」
と言われて確かに傷つく。もっとストレートにセリフの良さを受け取りな、と彼女は言う。
「セリフだって演技くさすぎて全然覚えてないね」
斜めから考える自分は嫌になるが、あわよくば目の付け所が鋭くてステキだと錯覚してくれないかと密かに期待するズルさもある。考えない人間は葦より風に強くても、高いとこから世界を見えないロゼッタなのだと、辛うじて言い聞かせてギリギリの自尊心を保っている。
「理屈っぽい男はモテないわよ」
「俺には彼女がいるんだから、モテなくたっていい」
「またそんなこと言って。油断してたら私だって愛想つかしちゃうかもよ」
「そうなったら、俺の本ちゃんと読んでから返してな」
「いくらなんでもドライすぎない?」冗談でも別れをチラつかされると嫌気がさす。私の身体を離れた言葉には少しトゲがあったかもしれない。
「そう言う君は、何か努力してるのか」
「これ以上丸くならないようカロリー抑えてるんだから」
「無理したってどうせ食べるじゃない。運動して消費カロリー増やす方がよっぽど合理的だよ」
もう、うるさい。私に背を向けると、彼女はつと洗面所に向かって歯を磨きだした。彼女の歯がキレイになるまで、と言うより奥歯に詰まったストレスを掻きだすまで待ちながら、私は天井を見つめて次の言葉を考える。
「歯磨きなんてコーヒー1杯のカロリー消費にしかならないって。ポップコーン開けたらもうおしまいだよ」
絶対にこの言葉じゃない。脳みそは停止指令を出しているが、舌はひとりでに回り続ける。
「そもそも俺は痩せてほしいなんて言ってない」
回転をせき止めたのは、私の意識ではなく彼女の言葉だった。
「わかりました。もう知らないから」
彼女はさっき終えたばかりなのに、丁寧にまた歯を磨いてから部屋を去った。まさか2回磨いたらお菓子のカロリーを回収できるとでも思っているワケはないだろう。私もモヤモヤしながら歯を磨く。ピンクの歯ブラシは几帳面にいつもと同じスタンドに立てられていた。私が放り投げたブルーのブラシは洗面台で横になっている。ともかく、一人で映画を見たって面白くない。所在のない私はさっさと床に就いた。
それから彼女とは連絡も取らずに1週間が経った。ある日の朝、家の前に見慣れない段ボール箱が現れた。ずっしりと重たい箱を開けると、中には本が敷き詰められていた。私がこれまで彼女に貸していた本達。よっぽど怒っていたのだろう。まさか本当に別れるつもりなのか。
活字の苦手な彼女はあまり本を読まない。それでも「いつか読むから」と彼女が言うので貸し続けたら、いつの間にかこんなに積みあがっていたことに驚く。一冊ずつ本棚に戻すと、元の居場所に帰っただけなのに何だかよそよそしく感じられた。そして軽くなった箱の底には見知らぬ本が2冊紛れているのに気づく。「女心の取扱説明書」と「神やせ!食べて痩せる7日間ダイエット!」、お前は何もわかってない、女心を学び直せということか。一応まとめて棚に納めるが、明らかに浮いている2冊は、むしろ本棚にポッカリと空いた穴のようだった。
貸した時の会話を思い出しながら、帰ってきた本をパラパラめくってみる。すると背表紙の内側に書き込みがあるのを見つけた。「私の好きなセリフ1選と、嫌いなセリフ3選」。今になって急いで読んでくれたのだろうか。ご丁寧に嫌いなシーンまで挙げるのは彼女らしくない。理屈っぽい私への当てつけだろうが、そんな反抗心さえ懐かしく思えた。
珍しく彼女が語る嫌いなものは、何より彼女自身を語っている気がして、感想をすべて拾いあげずにはいられなくなった。せっかく納めた本を一気にぶちまけて、次々と背表紙をめくっていく。
そんな私の手を止めたのは部屋に鳴り響くインターホンの音だった。
モニターに映るのは、きまりが悪そうに身じろぎする彼女。私は玄関まで駆けだして扉を開けると、まっすぐに彼女の目を見て、とびきりの言葉をかける。
「君なしじゃ生きていけないとは言わない。きっと生きていける。でも君なしで生きていきたくないんだ」
彼女が好きな映画のセリフだった。
「そんな大袈裟なこと思ってないでしょ」
イタズラっぽく笑う彼女には、キレイな白い歯がよく似合っていた。
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お題:「歯磨き」×「映画」
彼氏はいつも予習する【ショートショート】
「旅行を彩るのは食事でも、絶景でもない。予習なんだ。」
これが彼氏の決まり文句。彼は旅行が近くと予習モードに入る。一緒に住んでいるから、そんな様子が嫌でも目に入る。
暇を見つけては、まずは地理から攻める、だとか、今日は歴史だな、とか本やネットをひたすらに読みあさる。エスカレートすると、図書館にいって昔の文献にあたったり、その土地出身の作家の本を読破したりと、予習に余念がない。先日、旅先の神社を歩きながら、私はなんとはなしに意見を投げてみた。
「そこまでやらなくても、もっと自由に楽しんだらいいんじゃない。」
「せっかく行くなら、味わい尽くしたいじゃん。予習しないままきたら、この神社だってありがたみ感じないでしょ?」
ゴーサインをもらった犬のように、待ってましたと、彼の口からウンチクが流れでた。
「この辺の川は急流で昔は洪水ばっかだったから、ここでは治水の神様が祀られているんだ。まあ治水の神様なんて、今じゃありがたみないよね、いや雨漏りは心配いらなくるか。あと実は急流も悪いことばかりじゃなくて、上流から肥沃な土壌が運ばれるおかげで水に強いナシの名産地になったんだ。」
余計なサインを出してしまった。
「このナシの誕生は19世紀のフランスにさかのぼるんだけどね…」
まっすぐに私をみる目から話が長くなりそうな熱気を感じたので、「もういいから、お参りしよ?」とストップをかけた。
視野を広げるためと言うけど、予習に熱が入りすぎて視野が狭くなってる気もする。彼のきまじめさには付きあいきれない時がある。
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歴史ばっかりじゃつまらないから、先週は私の提案で富士急に行った。
聞いてもない雑学で舌の回る彼も、この日はいつになくおとなしかった。さすがに遊園地に予習はなかったんだろうな。珍しく穏やかな気持ちでジェットコースターに並んだ。取りだしたスマホの画面を眺める彼は、顔をしかめたり目を見開いたり、忙しく表情を変えていた。横から覗きこむと、それはコースターに乗った一人称視点のFUJIYAMAの動画だった。
彼は眉をつりあげて言った。
「いいか。これは、楽しむための予習なんだ。」
理屈っぽい彼のスキを見つけると、私は楽しくなる。
「ビビってるだけなんじゃない?」
「違う。コースがどんな意図で設計されてるのか考えといた方がいいだろ。」
ああ楽しみだ、予習予習、とかブツブツ言いながら、動画をループして2・3週目に入っても彼の足は震えていた。
順番が回っていよいよコースターに乗りこんだ。動きだす。ジリジリと高度を増していく。
「はいはいはい。こんな感じだよね。登ったらちょっと右に曲がって、一気に落ちるんだよ。知ってるからな。」
私だけに聞こえる声で彼はぼやいてる。左手にはきれいな雪化粧をまとった富士山が見えるけど、彼の目にはレールの白色しか入らないらしい。くだりに差しかかる。
「ぎゅおおあぁああああおおあぁああああ」
叫び慣れていないカラダから断末魔のような奇声があがり、地上の人の注目を集めた。
降りてからはしばらくの放心状態を経て、
「思ったより楽しかったな。」
と憑き物が落ちたようにケロッとして元の饒舌に戻った。今思うと、あれは本当に彼に憑いたモノノケの断末魔だったんじゃないか。
次のアトラクションに並ぶと、彼は晴れやかになった顔を向けて口を開く。
「富士急は1961年に開場したスケート場がルーツなんだけどさ…」
いや、ちゃんと予習してたのか。ツッコミをいれたくなったけど、待ち時間はヒマだから、この日は付きあってあげることにした。
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長野のテントサウナに行くことになった。
「もう仕事に疲れちゃった。またどこかで癒されたいなあ。」
少しでも逃避したいと思って買った旅行雑誌をめくっていると、のどかな渓流をバックにした「大人の休日は大自然でととのう!」という力強いゴシック体に目がとまった。仕事もストレスも体脂肪も、全部ドロドロに溶かして、二酸化炭素と一緒に吸いだしてマイナスイオンに変えてほしい。
しかし数ヶ月先まで予約が取れない宿だとあって、ため息がでる。
「落ちついたらこんなとこ行きたいな。」
「そんなんじゃ一生行かないよ?すぐ行こう。」
「だって、予約取れないらしいよ。」
予約ページを開くとカレンダーは3ヶ月先までバツ印で埋め尽くされていたが、急なキャンセルがでたのか明後日の土曜の朝イチだけ一枠空きがあった。
「決まりだね。」
彼はニヤリとして言った。こうして金曜の仕事終わりに長野までドライブすることになった。
早めに仕事をあがって19時には家をでる約束。そのつもりで朝から2倍の集中力と、2分の1倍の完成度で仕事をこなしていった。それでも思うように進まない。
「帰るの21時くらいになりそう…!ごめんね、ダッシュで行く!」
とLINEするとすぐに彼からも返ってきた。「大丈夫よ。むしろちょうどよかった」
ちょうどよかったってどういうこと。聞いてもよかったけど、今はとにかく目の前の仕事に集中することにした。
やっとの思いで帰宅して家の扉をあけると、ムンムンと熱い空気がカラダにまとわりついてきた。
「なにこれ、暖房つけすぎじゃないの!?」
カバンを放って、リビングに駆ける。エアコンの設定は32℃。そして部屋の中央には、裸の全身をホッカイロで埋め尽くした人間が鎮座していた。
「カイロ貼りすぎてミイラみたいになってるじゃん!何やってるのよ」
「何って、サウナの予習だよ。サウナ、水風呂、外気浴のセットがどんなものか気になったから。」
彼は言った。「そういえばカイロといえば、カイロ市内でファラオのミイラが移転するって、引越パレードやってたね。死んでから3000年経っても死に顔をさらされるなんて可哀想だよね。僕が死んだら遺灰を海にまいて欲しいってのは贅沢かな。」
「今その話はいいから!もう出るからはやく汗流して!」
よく喋るミイラを脱衣所に押しこんで浴室のドアを開けると、バスタブには大量の氷が敷き詰められていた。
「こっちは水風呂の予習ね。」
あまりの用意周到さにあきれて言葉を失った。
サウナに着くまで4時間のドライブ。
車の中で彼と何を話していたか覚えていない。ただ途中でエレベーターがやってきて、地下に降りていく、そんなふうに自然と眠りに落ちてしまっていた。
ずいぶんと眠っていた気がする。いままで遠くで鳴りを潜めていた音楽やエンジンの音が急に頭の中にはいってくるから、自分が助手席に座っていたことを思いだしておもむろにまぶたを開ける。カーナビは深夜の2時を示している。
「ごめん、私ずっと眠ってたんだね…。」
「仕事も遅かったからずいぶん疲れてたんだね。でもホラ、もうすぐ着くよ。」
宿泊施設付きのサウナ。ここで仮眠をとって明日のサウナが本番になる。
体も重たい気がするし今日はさっさと寝よう。手短にチェックイン済まそうとして、フロントで投げられた言葉に虚をつかれた。
「誠に申しあげにくいのですが、お客様のお部屋を用意できておりません。決済が完了しなかったため仮予約がキャンセルされ、ほかのお客様の予約が入ってしまいました。」
どれくらいの時間立ち尽くしていたか分からない。ただひきつった笑顔で「そ、そうですよね…」と言ったきり、なにも言葉がでてこなかった。
その場にいてもたってもいられなくなって、逃げるようにフロントを出た私たちは行き場をなくして、車に引き返す。
エンジンがかかる音がすると、その後には何も続かなかった。さっきまで眠っていた座席にわずかに残る体温にさえ嫌気がさしてくる。
仕事もがんばったのに。4時間かけてきたのに。彼だってきっと疲れてる。それでも文句ひとつもなく連れてきてくれたのに。
「本当にごめん。私こんなミスばっかで、迷惑かけてばっかで。だから仕事もうまくいかないんだよね…。」
余計なことまでグチャグチャ頭を巡って、わけもわからないまま涙が頬を伝った。
彼はそんな私に少し微笑むと、リュックの中を手探りだす。
「このパターンは予習済みだよ。」
彼は言った。
「大丈夫、君の分もあるから。」
私に差しだした彼の手には、大量のホッカイロが握られていた。
彼はこんな時でも変なことを言うから、笑ってしまう。私は彼の手から溢れだそうとするカイロの中から一枚だけをつまんで抜きだした。
まだ封も切ってないのにカラダはじんわり熱くなっていた。
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お題:「ホッカイロ」 × 「サウナ」
セルフィッシュ・フィッシュ②
あれから引き続き、頭を巡るのはバスのことばかりだった。
「バス サイズ 大きさ」と意味もなく同じ言葉を重ねて検索してみると、ページはユニットバスの規格で埋め尽くされ、「バス サイズ アメリカ」と入れると、アメリカの老舗靴ブランドG.H.BASSが少し顔を出してくる。
"bus dimensions" とでも打てば海外のバスの寸法を調べる、という当初の目的は果たされる。ただ私の好奇心は目的をとっくに追い越して、どんな言葉と引きあわせれば結果が変わるか、そのバランスを探りたくなっていた。
一番はどの「バス」か。私は固唾を飲んで行く末を見守っていた。バスステークスの開幕である。トラックには、本命の観光バスに続いて、対抗のブラックバスが並び、その横にはバスタオルとローファーG.H.BASSが静かにその時を待っている。
会場に緊張が走るなか、「サイズ バス 海外」の合図とともにゲートが跳ね上がり、走者一斉にスタートを切った。
G.H.BASSは早々に試合を諦めたようで、靴に余計なシワをつけないよう、ゆっくりとゴールへ向かっている。バスタオルは前を走るブラックバスと観光バスの背中を懸命に追いかけるが、その差は開いていく一方。最後のコーナを曲がると先頭は観光バス、続くブラックバスの一騎打ちになる。しかしブラックバスは「世界」記録の文字に引っ張ってもらえなかったことが痛手となって巻き返しをはかれず、観光バスが堂々の1位フィニッシュ!
波乱のないレース結果と、堂々とした走りを目の当たりにして、観客は安心して惜しみない喝采を観光バスに浴びせた。観光バスも自らファンファーレがわりのクラクションを鳴らして、颯爽とウイニングランをしている。
それを横目にうなだれているのはバスタオル。重たくなった自分の体を湿らすのは汗なのか、悔し涙なのか、バスタオル自身もわかっていない様子だった。視線をさらに横にやると、トラックの端にはローファーが綺麗に向きを揃えて斜めに置かれていた。さっさと切り上げて帰っただけなのか、これがG.H.BASSなりのテーブルマナーなのか、あるいは勝負にもならない無念さに早まって自決しようとしているのか、我々には想像することしかできない。
そしてそんな騒ぎに目もくれず、ブラックバスは、投げ込まれたハズレの投票権をムシャムシャと飲み込んで回っていた。