自分が回るのは新歓パーティくらいでいい

まさか地球が回っているのか、なんて考えたこともなかった。

 

最近読んでいる「チ。-地球の運動について-」というマンガがおもしろい。天動説が信じられている世界で、命をかけて地動説を研究するフィクションだ。主人公のひとりはたまたま転んだ拍子に、星が動いて天地がひっくり返る感覚を覚える。観測者が動けば世界が動く、そんな当たりまえが胸に刻まれた主人公は地動説に惹かれていく。

 

もし現代でも天動説が主流だったら、この常識を疑うきっかけはなんだろう。

深夜でも灯りが絶えない現代の東京にあって、星の動きを実感する機会は少ない。転んで見上げる空に星はないし、打ちどころが悪いと頭上をピヨピヨ回る星だけ見えて天動説に傾倒しそうなものである。

 

自分だったらどこできっかけを得るだろう。カフェのトイレで朝から無駄な禅問答で大腸を刺激していたところ、トラブルが発生した。トイレットペーパーが回ってくれない。

 

トイレットペーパーの芯の内径が、筒型のペーパーホルダーのサイズとビッタリ同じで、ギチギチに通されたペーパーがくるくると回れるだけの遊びがなかったのだ。無理に回そうと強く引っぱると、紙のほうが引力に負けて破れてしまう。芯はかたくなに1mmも動こうとしない。明らかな発注ミスだ。

 

芯をずらせば滑りがよくなるかもとか、ミシン目に気をつけて引っ張れば破れないかもとか、その場で思いつくどんな試みもムダだった。文字通り規格外な紙を前に、私のほうが折れるしかなかった。

しかたない。私は紙の先端をもち、壁側に回して落とす。その先端を拾って持ち替えた手がまた芯の周りを回る。手の回転に比例して、努力に見あわない量の紙が少しずつ姿を現していく。

引き出したら勝手にトイレットペーパーのほうがくるくる回ってくれるはずなのに、今日は自分の手が紙のまわりを回っているなぁ。

 

そうか、これが地動説か。

 

勝手に納得して機嫌がよくなった私は、紙の先端を三角にしてカフェを後にした。

 

そのまま午前の用事を済ませたのはちょうどランチの時間で、私はふと視界に入った回転寿司店に吸い寄せられていた。平日の昼間に、それも一人で回転寿司にくるなんて初めてのこと。かつては家族に連れられ、目をキラキラさせながらびっくらポンにかじりついた私もここまで大きくなった。初めてコンビニでお酒を買った時に似た胸の高鳴りを抑えて扉を抜ける。しかしそこには私が想像するワクワクはなかった。

 

寿司が回ってなかった。

 

客が少ない平日の昼は寿司を流さタブレットから注文が入ったらその都度とどけるフルオーダー制だった。ガシャポンに胸を躍らせる子どもはおらず、あるのは淡々と寿司を体に流し込む大人だけで、寿司が流れるベルトコンベアはそんな客の食道に繋がり滞りなく運搬されていた。

 

戸惑いはあるが入った以上は倣うほかない。工場作業員の列に加わると私も見よう見まねで発注作業を始めた。しかしこれがなかなか骨が折れる。何人かで来ていれば誰かの注文に便乗できるところだが、今回は自分が発注をサボれば飯にありつけず空腹で困るのは自分自身だ。働かざるもの食うべからず。幼稚園のボーイスカウトぶりにこの言葉が骨身に沁みた。

 

いつもなら寿司の方が私たちの周りを回ってくれるのに、今日は私がメニューを見て寿司のページを回らされている。

 

そうか、これが地動説か。

 

現代のコペルニクスは飲食店にいるらしい。